牛伏寺について

縁起

当山は、信州松本の南東、鉢伏山の中腹、海抜千メートルの幽谷の地に位置し、山号を金峯山(きんぽうさん)、寺号を牛伏寺(ごふくじ、うしぶせ寺とも呼びます)と称する真言宗の古刹です。
寺号は、その昔、本尊十一面観世音菩薩の霊力により経典を積んだ二頭の牛が、この地で同時に倒れたことに由来します。

牛伏寺縁起物語

寺伝によると、天平勝宝七年(756年)唐の玄宗皇帝が善光寺へ大般若経六百巻を納経の途中、経巻を積んだ赤・黒二頭の牛が、この地で同時に斃れ、その使者たちが本尊十一面観世音菩薩の霊力を知り、その経巻を当山に納め、二頭の霊を祀って帰京しました。

この不思議な因縁により寺号を牛伏寺と改め、参道途中の牛堂に阿弥陀仏を中心に、赤黒二頭の牛像をまつっています。

古来より牛伏厄除観音と称し、厄除霊場として県内外に知られ、また、信濃三十三番中第二十七番札所となっており、法燈壱千三百年を今日に継承いたしております。

寺宝

当山は東日本でも有数の貴重な仏教文化財を有する寺であるが、一千年余の歳月の間には、度重なる大きな火災があった。現在に伝わるこれらの仏さまたちは、重なる火災の難を避けてきたものばかりだが、その陰に業火のなか必死で仏さまたちを守り、仏法を守ってきた先人の姿が浮かびあがる。

  • 十一面観音立像

    十一面観音立像
    木造 平安後期(11世紀) 国重文

    「厄除観音」とし信仰を集めてきた牛伏寺の秘仏本尊。密教寺院にふさわしい森厳な表情をたたえた観音像です。

  • 不動明王立像

    不動明王立像
    木造 平安後期(12世紀) 国重文

    十一面観音の脇侍に不動明王と毘沙門天が並ぶのは、密教寺院に見られる三尊形式で、不動は童子形に表されます。

  • 毘沙門天立像

    毘沙門天立像
    木造 平安後期(12世紀) 国重文

    中国風甲兜を着用する本尊の脇侍です。不動とともに憤怒相ではあるものの、やや素朴さの残る作風が特徴です。

  • 釈迦如来坐像

    釈迦如来坐像
    木造 平安末期(12世紀) 国重文

    丸顔の頭を俯き気味に前に出し、体はなで肩の曲線を描きます。藤原様式から鎌倉への胎動期の仏像とされます。

  • 文殊菩薩騎獅像

    文殊菩薩騎獅像
    木造 鎌倉前期(13世紀) 重文

    釈迦像の脇侍として、獅子の背に載せた蓮華座に右脚を踏み下げる半跏座で坐します。中国宋風の着衣が特徴です。

  • 普賢菩薩騎象像

    普賢菩薩騎象像
    木造 鎌倉前期(13世紀) 国重文

    像の背に載せた蓮華座上に結跏趺坐します。鎌倉時代に文殊・普賢が脇侍として加えられたものと考えられます。

  • 薬師如来坐像

    薬師如来坐像
    木造 鎌倉前期(13世紀) 国重文

    顔は正面を見据え、背筋を伸ばし胸を張る堂々とした像です。定朝様式から抜け出した鎌倉時代の作と思われます。

  • 大威徳明王像

    大威徳明王像
    木造 平安後期(11世紀) 国重文

    牛に跨る三面六臂六足の憤怒相の明王で、五大明王としてよりも怨敵調伏の独尊像として造立されたと見られます。

  • 如意輪観音坐像

    如意輪観音坐像
    木造 鎌倉前期(13世紀) 県宝

    一面六臂の菩薩形で磐座(後補)の上に輪王坐で坐します。瞑想するような顔立ちが文殊・普賢両像と類似します。如意輪堂の本尊として祀られてきました。

  • 蔵王権現立像

    蔵王権現立像
    木造 平安中期(10世紀) 県宝

    鉢伏山頂直下の蓬堂に祀られたと伝えられ、内刳りを施さない一木造りで、山岳信仰を伝える牛伏寺最古の像です。

  • 奪衣婆坐像

    奪衣婆坐像
    木造 応永29年(1422) 県宝

    三途の川のほとりで死者の衣を剥ぎ取る鬼婆とされ、痩身に表わされます。胎内に室町時代の造立銘があります。

  • 女神坐像(2体) 男神立像 男神坐像

    女神坐像(2体)
    男神立像 男神坐像
    木造 平安後期~鎌倉時代(12世紀)
    市重文

    この男女神像は境内の鉢伏権現の御神体と伝えられますが、もとは熊野十二社権現の神像であったと考えられます。

  • 地蔵菩薩半跏像
    木造 至徳4年(1387) 市重文

    右手に錫杖を、左手に宝珠を持つ半跏形式の像は特に延命地蔵と呼ばれます。像内に南北朝時代の墨書銘があります。

  • 十王像 附司命司録像(12体)
    木造 室町時代(15世紀) 市重文

    十王像には10体が完備した上に司令・司録像が備わり、印派仏師の工房で造られた一具の像と見なされます。

  • 追儺(ついな)面 2面
    木造 市重文 永禄10年(1567)

    青鬼・赤鬼の面でかつて正月七日に行われた追儺祭に実際に用いられました。裏面に戦国時代の銘文が見られます。

  • 童子坐像
    木造 市重文 江戸中期(18世紀)

    「おからこ」と呼ばれ、この像を抱くと懐妊するという子授けの伝承をもち、その信仰は今日まで続いています。

Photo by 野久保 昌良

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